《読書感想》倉橋由美子『聖少女』|最後の少女小説

私が小説家を目指して新人賞に応募していた時、倉橋由美子氏の作品より作風の影響を受けました。倉橋由美子氏の観念小説は美しく、現実と非現実の境目を有耶無耶にさせる技量は凄く、特に『聖少女』という長編小説が記憶に残っています。

この前、聖少女をまた読み返しましたが…私にとってはこれが最高の少女小説であり、倉橋由美子氏にとって最後の少女小説です。ここでは聖少女に対する個人的な感想を記載したいと思います。

倉橋由美子全作品5より聖少女を拝読

聖少女は単行本(ハードカバー)もありますが、私は『倉橋由美子全作品5』から読みました。どちらも内容は同じです。

『倉橋由美子全作品』は全8巻あり、巻末に作者のコメントを記載した作品ノートがあるので、作者側の本心や執筆中の経緯など知ることができます。

なお、本作品は倉橋由美子氏の作家活動にとって初期~中期あたりの段階で書かれたものであり、芥川賞候補作になった『パルタイ』や『夏の終り』は聖少女より前の作品となります。作家デビュー時より、その実力が認められていた女流作家様なのです。

聖少女の概要|交通事故で記憶を失った少女のノート(小説)

聖少女のはじまりは男主人公の『ぼく』が、女主人公『未紀』と出会った過去のシーンから入り、ぼくの語りから未紀が交通事故を起こしたことが明かされます。頭部を強くぶつけた未紀は過去の記憶を一部失ったが、日記のようなノートを彼女は書き残しており、それを読んだ僕が未紀の過去を手繰り寄せていく話となります…。

こうやって書くと、記憶喪失(アムネジア)というサスペンスでありがちな設定だと思われるかもしれませんが、本作品で独特なのは、未紀という少女があいした(愛を平仮名表記にした理由は以下で述べます)『パパ』は実の父親ではないかという疑い…つまり近親相姦という悍ましい言葉が過去の影に隠れているという点であります。

未紀のノートには、パパが実の父親かどうかを確定する記述がなく、日記というより小説の文体で書かれているのも興味深く、記憶を失う前の未紀が『その行為』を聖化するために執筆したフィクション小説である疑惑も浮上します。

確かなことがないまま話が進み、未紀とぼくの間にある愛(こちらは漢字の愛とします)における変動もストーリーラインに付随し、『この話は誰が幸せになるのだろう?』と思いながら私は読んでいました。不安もあり、先の真実も知りたい不思議な感覚でした。

『愛する』と『あいする』の違い

聖少女の根幹となる『実の父親(であるかもしれない)との情事』に関して、未紀を含め登場人物達は二種類の愛を使い分けています。

ここで注釈をいれておきます。あいするとあたしが平仮名で書くのは、 make love のことで、つまりあたしのからだでパパをとりこにすることを意味します。漢字の愛するは、心の自由を捧げてしまうことですが、こちらの意味では、あたしのいったことは嘘です(その証拠にあたしはパパの耳たぶを咬んでやりました)。

引用元:倉橋由美子全作品5  聖少女・結婚 p.100

平仮名が書かれるあいするは肉欲的なラブになり、漢字の愛するは精神的なラブになる、といった感じです。未紀はパパに対してあいすることをしたものの、そのパパが実の父親かどうかはノート乃至日記では曖昧にしたままでした。

こういった言葉の使い方が個人的に凄く好きで、倉橋由美子氏のセンスを感じます。ほかにも登場人物をイニシャル(KやM)で表したり、パパとパパという下線で違いを生ませたり(同じ登場人物名でも内在する意味が変わります)、限られた小説の舞台で面白い表現技法を魅せてくれます。

現代の少女小説とは意味合いが異なる

最初に聖少女のことを少女小説だと言いましたが、これは少女趣味の小説ということではなく、少女を主体にした小説という意味になります。乙女コミック的な作品を期待していた方には甚だ恐縮ですが、現代で広まっている認識とは異なります。

でも、未紀もある意味で乙女らしい純真な心を持っているのではないかと思います。自分の年齢の二倍はある男と寝て、何が純粋なのかと疑う心も私の中にありますが、本作品の小説内=小説(未紀が書いたノート)を読むと、そんな気がしてくるのです。

また、聖少女に感化されて自分も少女小説を書きました。新人賞にも応募しましたが案の定一次選考で落ちましたので、こちらは特筆すべき内容ではございません。

参考:6年間で17作品の小説を書いた小説家志望の(稚拙な)アイデア紹介!